昭和20年に遭った東京大空襲の後、東京市(昔は市でした)の端にあった浅草一帯も焼け野原になりました。
一部のコンクリート造りであったビル、東武浅草駅は内部焼失しましたが外観は残りましたし、“神谷バー”や浅草東本願寺も焼けずに残りました。
また代田治男は人望も熱かったため、周りにも担がれ台東区議会議員となり、歯科医師と区議会議員という二足の草鞋(わらじ)を履いた、とても多忙な人生を歩みました。
まだこの辺りには、“ちんちん電車”と言われた都電(16系統 大塚〜錦糸町)が走っていました。
都電は廃止されずいぶん経ちますが、現在はこの路線のあった下を「都営地下鉄大江戸線」が走っています。
和郎は乗り換えるものだと思い込み下車したところ、治男はそのまま乗っており・・・
和郎は「止まってくれー!!!」と泣き叫びながら走り、必死で追っかけ止めてもらい乗車したというエピソードがありました。
まさしく三丁目の夕日のような仄々とした出来事です。
昭和39年の東京オリンピックに合わせて首都高速も作られビルも高層化していきましたが、浅草も木造だった家々が多くのビルにとって変わっていきました。
その高度成長の時期の昭和56年、代田歯科医院は、息子の和郎が二代目医院長となりました。
バブルの時代で、世の中がイケイケだったころでもありますね。
和郎も台東区民として、そして地元の歯科医師会の役員として尽力を果たしてきたのは、息子である私も十分見てきました。
無事大学を卒業して国家試験にも合格、歯科医師になることができました。
大学卒業後は浅草を始発とする東武線沿線の埼玉にある医療法人の分院で約5年ほど勤務医や分院長を経験しました。
歯科医療技術の基礎から当時の最先端な技術まで様々なことが学べたことが一番と思っていますし、歯科医療法人は歯科医師やスタッフの数も多く、今でも相談し合える仲間を作ることができました。
また分院長の立場・スタッフの立場の両方の角度から見る事ができ、マネージメント力の勉強にもなったと思います。
これからは代田歯科医院の三代目院長として、周りの人への感謝の気持ちを忘れずに、常に前を向いて進んでいきたいと思っています。内外装もリノベーションを施した、新しくなった「代田歯科医院」を、どうぞ宜しくお願いいたします。